レオ・ブラウディは、ネオレアリズモを<現実の美学>と呼んだアンドレ・バザンを引用しながら、イタリア人監督(ロッセッリーニやデ・シーカ)とニューシネマ以降のイタリア系アメリカ人監督(コッポラ、デ・パルマ、スコセッシ)とを比較して、前者が日常生活に根ざした映画作りをしたのに対し、後者がプロットやスタイル上でジャンル映画のフォーマットを利用したと指摘している。(註1)ギャングスター映画からミュージカル映画まで手がけてきたスコセッシの作品群には、『最後の誘惑』(1988)や『クンドゥン』(1997)のような宗教映画も含まれるが、こうしたキリスト教を題材とした映画は、ハリウッド以上にイタリアで繰り返し上映されてきたものである。『神の道化師 フランチェスコ』(1950)や『救世主』(1975)などの宗教映画を手がけたロッセッリーニの場合、対独抵抗運動を主題にした『無防備都市』(1945)や『戦火のかなた』(1946)でも、重要な人物として聖職者が登場していた。
スコセッシの最新作『沈黙』(2016)は、カソリック作家の遠藤周作の同名小説を映画化したもので、宗教映画に分類されるだろうが、シチリア出身のジュゼッペ・キアラをモデルとした、棄教者の宣教師ロドリゴを主人公にしている点で、信仰の勝利を謳い上げるような通常の宗教映画からは逸脱しているようにも思われる。当初は『日向の匂い』という題名だった原作小説は、日本の伝統的な宗教観とカソリシズムとの対立を取り上げているものの、<神の不在>というよりは、主人公ロドリゲス宣教師の<教会からの離脱>に焦点が当てられている。篠田正浩の映画化(1971年)は、日本にキリスト教が根付かなかった理由を問うことで、日本人論を展開したものと思われるのに対し、監督になる以前には聖職者の道も考えたというスコセッシは、同じ主題にクリスチャンである西欧人の立場からアプローチしたものと解されるだろう。
新潮社から書き下ろし小説として発表された原作は、日本におけるキリスト教徒弾圧の状況が客観的に説明された「まえがき」、長崎に上陸した宣教師の主観で切支丹の受難が語られる「ロドリゴの書簡」(Ⅰ~Ⅳ章)、踏む絵をめぐる主人公の葛藤が「内的ダイアローグ」とでも呼ぶべき半主観で綴られる無表題の本文(Ⅴ~Ⅷ章)、歴史的文書の引用である「ヨナセンの日記より」と「切支丹役人日記」、そして「あとがき」という異なった複数のテクストで構成されている。この「あとがき」では、作家本人の宗教的立場が、プロテスタントに近いと述べられているのだが、現在流布している文庫本では削除されている。
こうした複数のテクストを通して語られる宣教師の遍歴を映像化するに当たって、スコセッシはロッセッリーニの作品群、とりわけ『戦火のかなた』に触発されたスタイルを採用した。『戦火のかなた』の原題Paisàは、<同郷の人>、つまりアメリカへ移住したイタリア人を指す。イタリア語を解しながらアメリカ社会の生活様式に馴染んだ<Paisà>とは、アジア学でいうところの<跨境民族>、つまり「違う国に住み、原来的伝統文化と特色を保留しており、お互いに同じ民族という意識がありながら、また一方では今住んでいる地域の特色をも持っている民族」(註2)である。『戦火のかなた』では、イタリア人とイタリア系アメリカ人の邂逅が繰り返し描かれたように、映画『沈黙』では、宣教師が日本で同じ神を信じる切支丹を発見して行く。ナチス・ドイツとパルチザンの関係が、徳川幕府と切支丹の関係に置き換えられているのは明らかだが、ロッセリーニの映画は、こうした2項対立を乗り越えたより重層的なスタイルを備えている。
『無防備都市』では、ナチスがパルチザンを拷問し、神父が立ち会う。その後、銃殺される神父を子供たちが目撃する。『戦火のかなた』では、ナチスがパルチザンを川に落とし、止めようとするアメリカ兵も銃殺される。そしてヴォイス・オーヴァー・ナレーションによって、「1944年冬のことである。数ヵ月後戦争は終わった」と語られる。ロッセッリーニは加害者と被害者の関係を重層的に構成することで、特定の人物の立場に焦点化することのない客観性を貫こうとする。『沈黙』では、長崎奉行の配下が切支丹を海に投じ、止めようとするガルペス神父も溺死させられる。これを目撃するロドリゴは、ガルペスに転べと念ずるのである。スコセッシはロドリゴを主人公として浮き立たせながら、信仰の問題に切り込んで行き、<神の沈黙>のかなたに、特定の宗派を優先しないエキュメニズム(カソリックとプロテスタントの融和)の境地に辿り着こうとするのである。